私は一地清愁さんの詞が好きで、学ぶこと、とても多いのだが、昨日の傑作には度肝を抜かれた。
詩の中で典故をどう扱うかで、清愁さんの技巧は空前絶後、この世のものとは思えず、まさに神工といって過言でない。
詩の中で典故をどう扱うかで、清愁さんの技巧は空前絶後、この世のものとは思えず、まさに神工といって過言でない。
浣溪沙・不覺兩朶涙成花 一地清愁
明月淸陰落碧紗,閑讀老樹對昏鴉。斷腸誰個在天涯。
句裏人兒何似我,鏡中影子怎如他。不覺兩朶涙成花。
(中華新韵一麻平声の押韻)
明月 淸陰 落つる碧紗にして,
閑に讀めば老樹 昏鴉と對なり。
斷腸 誰個(だれ)か天涯にあらん。
句の裏(なか)の人兒(ひと)何んぞ我に似,
鏡の中の影子(影)は怎(なぜ)に他(彼)のごときか。
不覺にも兩朶の涙 花となる。
典故をどう扱うか、という点で、この玉作のどこがすごいかといえば、
閑讀老樹對昏鴉
この句は、讀むという行為を通して、次の馬致遠の名曲『天淨沙』の世界と清愁さんの『浣溪沙』の世界を、時空を越えて一体化しているのだ。
天淨沙 元 馬致遠
枯藤老樹昏鴉,小橋流水人家,古道西風痩馬。夕陽西下,斷腸人在天涯。
枯れた藤 老いたる樹 昏鴉((夕べのカラス),
小さな橋 流れる水 人家,
古き道 西からの風 痩せた馬。
夕陽 西に下(お)ち,
斷腸(悲しいかな)人は天涯にあり。
清愁さんの『浣溪沙』は馬致遠の『天淨沙』から「老樹,昏鴉,斷腸,天涯」の四語を引いて典故としているのだが、初句の“明月淸陰落碧紗”の紗と『天淨沙』の沙を巧みに織り込んでいて趣があり、清愁さんと馬致遠の詩情の融合を、さらに深いものとしている。
清愁さんと馬致遠の詩情が融合する。
そこで、
句裏人兒何似我,鏡中影子怎如他。
『天淨沙』に登場する彼と鏡の中の私は、どうしてかくも似ているのだろう、ということになる。
この對仗は秀逸。
そして、
不覺兩朶涙成花
涙が花となる、という表現は、甘美な感傷を象徴している、と読めないこともないが、馬致遠の『天淨沙』を典故としている背景には、故郷の北京から遠く離れた天涯である東瀛(日本)で暮らす清愁さんの秋の思いがあるのかもしれない。
しかし、読者としての私には、「兩朶」という言葉には、同じ樹から延びる二本の枝が暗示されており、その枝に咲く花のひとつは、馬致遠の『天淨沙』であり、ひとつは清愁さんの『浣溪沙』であるように私には思えた。
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